PAGE TOP

公開日:2016.12.07

更新日:

クリエイターの軌跡 第2回 「ウォルト・ディズニー」

クリエイターを、作品・ビジネス・概念など広範囲に捉え、彼らの半生を描く”クリエイターの軌跡”第2回目は「ウォルト・ディズニー」。

 

 

今回はウォルト・ディズニーの生涯についてまとめました

 

w01

 

前回描いたのはスティーブ・ジョブズ。

ジョブズとウォルト個人に関連はないものの、ジョブズとディズニーという企業には大きな関連性があります。

前記事、クリエイターの軌跡 第1回 「スティーブ・ジョブズ」にて記載したように、ジョブズは一度appleを追い出された後にピクサーを買収しました。

後にディズニーによるピクサーとのM&Aの話が浮上し、いざ買収を発表する30分前にディズニーCEO ロバート・A・アイガーはジョブズから、癌が再発し、あと5年生きられる確立は50%だということを告白される。

これは、当時ジョブズの子供やAppleの役員すら知らない、誰にも打ち明けていないことだった。

ディズニーがピクサーを買収することで、ピクサーの発行済株式の50.6%を保有するジョブズが自動的にディズニーの個人筆頭株主となってしまい、余命短い人間が筆頭株主となってしまうことを懸念したジョブズはアイガーに癌のことを打ち明けたのだった。

アイガーはジョブズに「私たちがほしいのはピクサーであって、君個人というわけではないから」という理由で最終的に買収は進められた。

少し冷たい言葉にも感じられるかもしれないが、その後ジョブズとアイガーは更に親密になり、アイガーは2011年にAppleの取締役会の一員となる。

ということで、前回のテーマであったジョブズと繋がりの濃いディズニーを創設した「ウォルト・ディズニー」についてまとめていきたいと思います。

 

 

 

 

幼少期から青年期まで

 

ウォルトは小さい頃から絵を書くのが好きな子供でした。

シカゴで生まれ、その後ミズーリへ移り、そこで幼少期を過ごす。

7歳のときから自分の描いたスケッチを近所の人に売ったりとアーティストとしても、ビジネスマンとしても、才能の片鱗はこのあたりから見えはじめていたのかもしれない。

 

 

 

 

衛生兵として第一次世界大戦へ、そして漫画家へ、アブ・アイワークスとの出逢い

 

もともと愛国心の強かったウォルトは、サラエボ事件をきっかけとした第一次世界大戦が勃発すると、通っていた高校と美術学校を退学し、陸軍へ志願する。

このとき16歳だったため、志願基準に1歳足りなかったため、年齢を誤摩化し志願するも、若年であったため、兵士としてではなく衛生兵として従事することとなる。

そして戦争から戻ったウォルトはカンザスシティーにて新聞に漫画を書く仕事を請け負う。

だが、当時新人だったウォルトへの依頼は少なく、日々の生活に苦しむこととなり、それを見かねた兄のロイが知人に仲介してもらい、広告デザインの仕事を斡旋する。

広告デザインの会社で働き始めたウォルトはそこで生涯の友人となるアブ・アイワークスと出逢う。

彼はジョブズにとってのウォズニアックのような存在だったのであろう。

 

 

 

 

失業から、新たな創作活動へ

 

w02

 

広告デザイン会社から契約更新を打ち切られ、ウォルトとアイワークスは失業してしまう。

そして、1920年に2人で「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を立ち上げる。

この会社は当初、デザイン会社として設立するものの、早々にウォルトは生活のために、カンザスフィルム社にアニメーターとして雇用され、結果会社は長続きしなかった。

しかし、雇われ先で短編アニメの作画を担当する中で自身のアニメーターとしての資質に気づき、ウォルトの興味はアニメーションへ移っていく。

そして独立し、個人事務所を設立する。これも1920年。実に慌ただしいが、前回のジョブズと近いものを感じる。

個人事務所設立後、事業化からの出資で初のオリジナルアニメ「ニューマン劇場のお笑い漫画」を制作し、娯楽作品として良い評価を得て、アニメの制作依頼が順調に舞い込むようになる。

仕事が増えたことで、事業拡大のために個人事務所からアニメ制作会社へと拡張し、アブ・アイワークスや、数人のアニメーターを呼び寄せる。この時まだウォルトは20歳。

しかし、制作に没頭するあまり、資金のやりくりが乱雑になり、スタジオは倒産してしまう。

ここでウォルトは、経営面のサポート役の必要性を感じ、地元銀行の職員としての経歴を持つ兄ロイとビジネスを再開することとなる。

 

 

 

 

ディズニー社の設立、成功と失敗

 

w03

 

ビジネスの場をカンザスから映画産業の本場であるハリウッドへ移し、カンザス時代に制作した「アリスの不思議の国」のシリーズ作品を販売する会社として「ディズニー・ブラザーズ社」を設立。

この時、カンザス時代のアニメーターや、新人アニメーターなどを再度集めた。

ちなみに「アリスの不思議の国」はアニメーションに実写を織り交ぜた作品で、実写のアリスがアニメーションの中でドタバタ劇を繰り広げるコメディ作品である。

アリスシリーズは人気を博し、経営は軌道に乗って行き、社名は「ディズニー社」へ。

1925年には従業員のリリアン・バウンズと結婚し、2人の娘をもうける。

1927年には、興行師のチャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、新たに「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案し、ユニバーサル配給でシリーズをスタートし、結果子ども達の間で大ヒットとなり、ディズニー社はアメリカ屈指のアニメ製作会社に急成長を遂げる。

ここにきてようやく、現代でもある程度認知度のあるオズワルドというキャラクターが生まれる。

オズワルドは簡単にいうと、耳の長いミッキーマウスのようなキャラクターで、見たことのある人も多いかと思う。

しかし1928年、ミンツと契約料の取引に望むと、ユニバーサル社から法外な配給手数料の支払いを要求され、ウォルトがそれを拒否すると露骨な社員の引き抜き工作を仕掛けられ、結果アイワークスを除くほとんどのアニメーターが引き抜かれ、契約書上オズワルドも配給会社の管理下に置かれていたこともあり、ディズニー社は一気に配給元・自社キャラクター・スタッフの大半を失い、倒産寸前に追い込まれてしまう。

 

 

 

 

ミッキーマウスの誕生

 

w04

 

オズワルドを失ったディズニー社は新たなキャラクターが必要となる。

カンザス自体に飼っていたマウスと思い出し、これまでの作品の中でたびたび登場していた適役のねずみを主役に抜擢することとなる。

アイワークスのスケッチではどうしてもオズワルドそっくりのキャラクターとなってしまうため、ルドルフ・アイジングがデザインを担当した。

そして動きの面をアイワークスが、魂の面はウォルトが構想し、ミッキーマウスが誕生する。

一作目、二作目はサイレント映画(無声映画)として作られ、散策目から効果音や声を吹き込んだ世界初のトーキー映画(発声映画)の短編アニメとして世に送り出される。

ご存知の方も多いかもしれないが、ミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じたのはウォルト自身であった。

その後、ウォルトの演出力とアイワークスの作画力を失ったオズワルドは次第に人気を失い、すぐにミッキーマウスにとってかわられることとなる。

 

 

 

 

ディズニーランドの開設と死去

 

w05

 

ミッキーマウスの誕生から世界的な知名度を得て、再建を果たし、その後もヒット作を世に送りつづけたウォルトは、1955年、カルフォルニアに150エーカー(607 028.463 m2) の土地を購入し、皆さんご存知のディズニーランドを開設する。

このとき、ウォルトはスピーチで「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。」と延べ、この想いは現在のディズニー関連作品・施設に受け継がれているのは間違いない。

 

 

 

 

ウォルトの人間性と学習障害

 

w06

 

愛国心

 

ウォルトは高校を退学して陸軍に志願したように、非常に愛国心の強い人物であったようだ。

第二次世界大戦時にはプロパガンダ映画を製作し、政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することが難しかったこともあり、アメリカ政府を顧客とすることに成功する。

戦時中はもちろん、戦後においても政府の核実験・原子力開発キャンペーンのための映画を作成するなど、積極的にプロパガンダに参加していた。

このとき、戦時中ということもあり、ミッキーが日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、「総領の顔」という作品では昭和天皇を風刺するシーンがあり、これは政府の要望からではなく、ウォルト自身が製作したものである。

時代背景もあるが、ウォルトはあまり日本が好きではなかった可能性が高い。

なので、東京ディズニーランドが設立されたのも彼の死後である。

その他にも、政治に深く関わり、ハリウッド内の思想についてFBIに密告していたのではないかとも言われ、よくも悪くも当時のアメリカ人そのものであったようだ。

そのため、黒人に対する差別や、白人至上主義者であったのでは、とも言われ、しの疑念を確証へ近づける作品がいくつも残っているほか、社内の要職に黒人や女性を起用することはなかった。

 

 

失読症(ディスレクシア)

 

失読症は、読んで分かる通り文字を読み書きすることが難しい学習障害のひとつで、ウォルトもその症状を持つ一人であったようだ。

障害を持つ人に多いのだが、障害を補うために別の面がひいでることが多々ある。

たとえば、目の見えない人の聴力が健常者に比べて優れることがあるように、失読症をもつ方は映像や立体の認識能力に優れることが多い傾向があるようで、ウォルトはまさにそれが顕著に現れた例ではないだろうか。

失読症をはじめ、学習障害や発達障害はとても身近なもので、なんらかの障害を持つ人は30人のクラスがあれば複数人以上いる場合も多いほどだ。

しかし、ウォルトのように障害にとらわれず、自身の長所を伸ばす姿勢が成功へと繋がるのかもしれない。

 

 

受賞歴

 

ウォルトは生涯で多くの受賞歴を持ち、中でもアカデミー賞の個人受賞最多記録をもっている。

おそらく彼を凌ぐアニメーターは今後誕生しないであろう。

 

 

 

今回はウォルト・ディズニーについてまとめてみました。

個人的には前回のジョブズに通ずる面も多い気がしました。

共通して、ビジネスパートナーに裏切られての低迷や、尋常ではないアクティブさなどを持ち、そして最終的に大きな成功を築いている。

もしかしたら作るものが違っただけで、やっていることに大差がないのかもしれないとも感じた。

では、今回はこのへんで。

 

 

参考・画像出典

http://www.orlandosentinel.com/travel/attractions/the-daily-disney/os-walt-disney-birthday-2014-story.html

http://iamamommynerd.com/90-years-of-disney-magic/

https://www.yahoo.com/movies/lumi%C3%A8re-festival-walt-disney-alice-comedies-being-restored-204449062.html

http://disney.wikia.com/wiki/Oswald_the_Lucky_Rabbit/Gallery

http://waltdisneyandmickeymousebyma.yolasite.com/

http://www.insidethemagic.net/2015/07/13-disneyland-secrets-to-improve-your-knowledge-of-disneys-original-theme-park/

https://www.entrepreneur.com/article/197528

monomodeリクルートサイト
AD JOURNAL